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新宿TOKYU MILANOビルが2014年末閉館へ。 [再開発]

送信者 Shinjuku,Kabukicho 2014

永らく、歌舞伎町劇場街の中心に、コマ劇場と並んで位置してきた「新宿TOKYU MILANOビル」が2014年末に閉館することになりました。 昭和31年以来、歌舞伎町のランドマークとして、日本最大級のスクリーン、そして座席数を誇り、また、映画黄金期だった昭和50年代には「E.T.」など数々の動員記録を打ち立てた劇場です。

株式会社東急レクリエーション ニュースリリース(2014.5.13)より

「新宿TOKYU MILANO 内の直営事業所」閉鎖に関するお知らせ

株式会社東急レクリエーション(本社:東京都渋谷区、社長:菅野信三)では、新宿TOKYU MILANO 内の直営事業所を下記のとおり閉鎖することといたしましたので、お知らせいたします。

1.閉鎖事業所 【新宿TOKYU MILANO】 東京都新宿区歌舞伎町1-29-1

① 映画館 「新宿ミラノ1」(1,064 席)、「新宿ミラノ2」(683 席)「新宿ミラノ3」(216 席)、「シネマスクエアとうきゅう」(224 席) ② ボウリング場 「新宿ミラノボウル」(58 レーン) ③ コンビニエンスストア 「ファミリーマート西武新宿駅前店」

2.営業終了予定日 2014 年12 月31 日 閉館予定

3.閉館の理由

「新宿TOKYU MILANO」は、新宿東急文化会館として、映画館2館「ミラノ座(現新宿ミラノ1)」「新宿東急(現 新宿ミラノ2)」とスケートリンクを擁した複合ビルとして、1956 年12 月に開館いたしました。その後、1967 年12 月にスケートリンクに変わりボウリング場「新宿ミラノボウル」、1981 年12 月に映画館「シネマスクエアとうきゅう」、1997 年3 月にコンビニエンスストア「ファミリーマート西武新宿駅前店」をそれぞれ開業いたしました。 また、1965 年12 月には新宿ミラノ新館が開館し、新館内にて1971 年11 月に映画館「名画座ミラノ(現 新宿ミラノ3)」を開業いたしました。

開業以来、多くのお客さまに親しまれるとともに、当社を支える主要な事業所として運営を継続してまいりましたが、近年、映画興行においてはシネマコンプレックスが主流となり、近隣への相次ぐシネマコンプレックスの出店により観客動員の減少を余儀なくされました。またボウリングにおいても業界全体での参加人口が減少傾向にあるなか、特に歌舞伎町来街者の大幅な減少にともない苦戦をしいられております。

当社といたしましてはさまざまな営業施策ならびに徹底したコスト削減に取り組んでまいりましたが、業績の回復にはいたらず、またビル全体の老朽化も鑑み営業活動の継続は難しいと判断し、「新宿TOKYU MILANO」内の直営事業所を閉鎖することといたしました。 お客さまをはじめ地域・関係者の皆さまにおかれましては、これまで賜りましたご愛顧・ご支援に対し、改めて心から感謝申し上げます。

なお、今後につきましては現在のところ未定ですが、地区計画・歌舞伎町周辺再開発動向等を見極めつつ、事業性の検討を進めてまいります。

以 上

【お問合せ先】 株式会社東急レクリエーション ポートフォリオ戦略委員会 TEL 03-3462-8875
http://www.tokyu-rec.co.jp/company/news/2014/news_vision_shinjuku_org2014_5_13.pdf

《新宿TOKYU MILANOビル史》

昭和31年11月27日  完 成
昭和31年12月 1日  開 館
《開館当時の新宿東急文化会館》
建物概要:鉄筋鉄骨コンクリート造、地下1階、地上4階
延べ床面積 10,397㎡
施  設:B1    新宿東急(定員1,000人、外国映画一般封切館)
      1~2階 ミラノ座(定員1,500人、ロードショー館)
      3~4階 東京スケートリンク(S31.12.20開業)
           (滑走面積1,431㎡・縦27m・横53m・600人収容の観客席)

昭和32年12月21日  新宿東急文化会館B1~2階に「味の街」開業
昭和40年12月 1日  新宿ミラノ新館(昭和40年2月18日起工式) 《新宿ミラノ新館》
施  設:B2    麻雀
     B1~1階 パチンコ(481台)
      2~3階  ビリヤード(26台)
      4~5階  ダンスホール「ダンスミラノ」
※旧東京スケートリンク本社跡(約460㎡)→ S36より有料駐車場として使用
昭和41年11月 1日  ㈱東急文化会館と合併
昭和42年 4月    「東京スケートリンク」閉鎖
昭和42年12月 1日  「新宿ミラノボウル」開業(2フロア64レーン)
昭和44年 3月26日  株式会社東急レクリエーションに社名変更
昭和46年11月30日  「ダンスミラノ」閉鎖、「名画座ミラノ」開館(新館)
昭和56年12月11日  「シネマスクエアとうきゅう」開館
昭和62年 9月    「名画座ミラノ」を「シネマミラノ」に名称変更
平成 5年 3月 1日  「フレッシュショップ・レックスチェーン」開業
平成 5年11月27日  「モスバーガー新宿ミラノ店」開業
平成 8年11月15日  「新宿東急文化会館リニューアル」が完成 館名を「新宿TOKYU MILANO」に変更
平成 9年 3月31日  「レックスチェーン」をリニューアルし「ファミリーマート西武新宿駅前店」として開業

平成26年12月末 閉館予定


2014年5月12日『歌舞伎町弁財天祭礼』


2014年5月12日『歌舞伎町弁財天祭礼』が執り行われた。縁起にもあるように歌舞伎町弁財天の本尊は上野不忍・寛永寺の分祀で、例年5月、寛永寺よりご住職をお呼びし、祭礼が執り行われる。また、ここは秋に行われる熊野神社例大祭(今年は9月14日15日)で歌舞伎町睦の御酒所が設置される場所でもある。

歌舞伎町はかつて、この地が、肥前国(長崎)大村藩主だった大村家の別荘があったことから(明治~大正期)「大村の森」と呼ばれる場所だったそうです。真ん中に池とそれを湿地と森が囲み、明治期は絶好の鴨場だった。大正二年、上野寛永寺の不忍弁天様の分祀として本尊を勧請、池のほとりに祠が祀られたのが始まり。 明治26年東京の市民に飲み水を提供する淀橋浄水場が建設された時にその残土で残っていた鴨場の池が埋め立てられ、さらに大正9年には旧コマ劇場の辺りには東京府立第5高等女学校ができ、徐々にこのあたりはひっそりとした住宅街になっていった。池が無くなるも弁財天の祠はあり続け、やがて、大正十二年に土地の所有権が尾張屋銀行頭取の峯島家に移転した頃を機に、「峯島家 尾張屋銀行 町内篤志家乃淨財で」本堂改築を行う。昭和20年4月の空襲で消失、その際、熱心な信者の方(岡安たか子氏)が自身で本尊を持ち帰り、その後、峯島家に返還され、改めて、戦後復興期、消失した弁天堂の用地に仮殿を建設、その後、弁天堂用地は歌舞伎町商店街振興組合所有に、現在の公園用地は新宿区に寄贈され、現本堂は昭和38年に歌舞伎町商店街振興組合所有地に建設された建物に設置されたもの。
以来、歌舞伎町商店街振興組合は毎年5月、組合員の古希の祝いなどとあわせ、この弁財天で祭礼を行っている。
折りしも、旧尾張屋銀行・峯島家当代当主、峯島茂兵衛氏は今年88歳、「米寿」を迎えられた。

弁財天の縁起と歌舞伎弁天の由来


弁天様は佛教以前に賢者聖人の信仰厚き 宇賀神と稱する天地創造乃神のお一方で 佛教能始祖は天部の神登し佛教の守護神として崇がめられた尊神である 宇賀神はもと淨流水源等水を司る神で妙音天と云われ又美音天とも稱せられた文化神で 信仰すれば知恵が授かり芸術に長ずると古ろから 弁才天登云われ更に戝寶が授かる霊験のある処から 才乃字が戝能字に替り弁財天と云われるようになった 而して天部の神が垂れ賜う博愛を 美麗なる弁天のお姿で表現せられ信者は 弁天様乃愛稱で合掌する福の神様である 歌舞伎町は昔大村乃森と云われ広大な沼があって沼の邉りに 弁天様が祀られてあった 淀橋淨水場の建設に当り其の残土で沼は埋められ 峯島家で現在の場所に弁天様は祀られ 大正二年堂宇の改築再建に当り不忍弁財天より現在安置乃 御本尊を勧請して九月巳の日に盛大な祭典が行われ爾来九月の巳の日を 歌舞伎弁天の祭日とせられた 大正十二年に至り町内有志の発議により 峯島家 尾張屋銀行 町内篤志家乃淨財で大改装がせられたものであったが昭和二十年四月の大空襲で本堂及びお守家も罹災した 其の時熱心な信者の一人岡安たか子氏は苛烈な空襲下に於て 弁天様の厨子を脊に奉戴し堂守の梅原氏が付添ひ笹塚に避難しアパートの一室に安置をした 間もなく岡安氏は 弁天様が峯嶋家に移り度いとの御告げがあったので梅原氏夫妻に挓して峯嶋家にお移し申した 混乱した戦災時に於けるこの記録は信者乃田中次郎吉氏に依って明らかにせられたものである 而して昭和二十一年復興協力會では全町戦災した歌舞伎町の計画建設に当り区画を整備せられた際 弁天様の敷地は寸尺も変更せず以前のま〃を保存し復興協力会々長鈴木喜兵衛氏は街建設に魁がけて仮殿を建設し峯嶋家に安置せられてあった 御本尊をお移し申し現在に至ったものである 此の度 有志相寄り 弁天堂再建奉賛會を結成し大方の淨財を以て 永久不変の耐火構造に依り 御本堂を再建し 境内の改装を行ひ面目を一新して この霊験あらたかなる歌舞伎弁財天を当町及び近隣の 守護神として永遠に崇め奉らんとする次第である

鈴木喜兵衛謹書 昭和三十八年四月

歌舞伎町弁天堂再建奉賛會建之
奉賛會々長 藤森作次郎
建設委員長 小松太良八

太平洋戦争末期、昭和20年4月13日の米軍の空襲によって新宿駅周辺は焼け野原になってしまう。終戦を迎え、当時淀橋区角筈一丁目北町の町会長だったのが鈴木喜兵衛氏。疎開先からこの地に戻った鈴木は、家や家族を失いつつも散りじりになっていた当時の住民たちを訪ね、「復興協力会」を結成。戦後復興の鍵は観光にあるとして、地主・借地人・居住者をまとめ、区画整理をし、道義的繁華街をつくるというまちづくりの計画を立てた。 劇場を中心に、映画館、演芸場、ダンスホール、ホテルなどを建設するという計画。

占領下にあって存続が危ぶまれた伝統芸能を守ろうと、演劇関係者らが発起人になり菊座という名前の歌舞伎劇場建設も計画された。折から、新興文化地域にふさわしい町名を、との声が起こり、都の石川栄耀都市計画課長が提案した歌舞伎町に決まった。昭和二十三年のことで、「語呂もよし感じもよく、この町の建設目的にもピッタリとして居るので」と、鈴木氏はその著「歌舞伎町」(昭和三十年)で回想している。

昭和23年4月1日、新宿に歌舞伎町が誕生。しかし、GHQによる大規模施設の建築禁止令が出て、歌舞伎の劇場計画は中止になってこの計画はいまだに実現していないし今後もないだろう。 昭和24年都電の終点が新宿駅東口から歌舞伎町の入り口に移転。さらに昭和25年産業文化文化博覧会の会場に歌舞伎町が名乗りをあげ、これが成功。そして、昭和29年大規模施設の建築禁止令が解除され、産業文化博覧会用に建てられた施設を改築して映画館やスケートリンクが誕生、いまの歌舞伎町の原型が出来上る。
昭和31年には、歌舞伎町の中心に新宿コマ劇場が誕生、同時期に、今年末閉館を迎える新宿TOKYU MILANOビル(新宿東急文化会館)も竣工。当時の住民達の歌舞伎劇場誘致への想いが歌舞伎劇場ではなかったにせよ一つの目標達成だったかもしれない。映画館、劇場、スケートリンクを中心に多くの人たちがあつまった歌舞伎町には飲食店も増え、「大衆娯楽の街」として繁栄の時期を迎える。
昭和30年代は戦後生まれの若い世代がこの街に集まった。ツイストで踊り明かし、歌声喫茶で歌い、酒を酌み交わす当時の最先端の文化・流行発信の街として栄えた。ビジネスチャンスも多く、戦勝国として利権を与えられていた台湾華僑・韓僑を筆頭に、露骨な資本力は歌舞伎町の一等地を手に入れ盛んに商売した。
今の歌舞伎町の、許容性の高い多文化的な賑わいはこういった経緯がもたらした。 “歌舞伎町”建設時に鈴木氏らがこの街に与えた「大衆娯楽の街」というDNAと、もう一つの、許容性の高さ、言ってみれば、“懐の深さ”ともいうDNAは、同時に、“無関心”や、時に“対立”も生む。誰でもウェルカムな敷居の低さ、そして人生の再チャレンジができる場という“懐の深さ”は、この街の欠かせない魅力の原点である。同時に、良いも悪いも呑み込む、言わば、歌舞伎町の“邪”や“影”の部分をも許容する。歌舞伎町の魅力的なこの、“裏と表の半身浴事情”はそんなところに由来するのだろう。


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